奇怪で理解しがたい文字列

早口なオタクの140文字で収まらない叫びや絵を好き勝手にぶつけていく場所。すべての文が無駄に長い

とりとめもなくセンチメンタルな話

ここはワイの庭じゃけどインターネットの海でもあって、あんまりめったなことを言うべきではないのだが自分の感情の整理に使わせてくれ~~~い!

というのもどんなに楽しいことがあったとして、そしてカバディの布教記事を書きたいと思ったとしても、どうしたってこの話題をさけては生きていけないのだ。わたしの人生は。ハードル走のハードルの一つのようなもので、これを見て見ぬふりはできんのだ

なんのはなしかって、三浦春馬のはなしです

 

そんなわけでね、結構前に青春だったね!アミューズ!っていう内容をアップしたことがあるんですけど。その青春の真ん中にいた人が先日他界してしまいました。うわ、文字にすると来るね。他界ってね。死亡とかよりいいかなって思ったけどどっちもどっちですね

他界ね。他界なんですよね、本当に。もう会えない、わたしとおなじ世界線で生命活動をしていないんだなって現実を考えたときに、他界って言葉がいちばんそれっぽいなぁって思ったんだよな

半径3メートルの法則だとかってよく言いますけど、わたしにとって、半径3mの世界だったんですね~彼は。いや芸能人だから現実的な距離ではもちろんないのだけど。家にいっぱいあるんだ~彼が出てるDVDがね。いっぱいあるの。いっぱい見たんだなぁ

わたしは俳優三浦春馬をファンとして追っかけていた人間ではないので、それこそ彼のファンで全国を駆け回っていた人たちとは比べ物にならないような感じではあるんですが、はるたけ世代のハンサムが、それはもう、それはもう本当に大好きだったんですよ

自分もはるたけ世代なのもあったかもしれないけど、やっぱり一番好きなんですね。一番楽しいなって思った時間をこの世代と過ごしたし、前も言った通り本当に青春だったんですね。楽しかったなあって

人生で一番自由にできる時間ってその人によってそれぞれあると思うんですが、わたしの場合はたぶんこのアミューズとかテニミュとか若手俳優を好きだった時間がそうだったんですね

大人になるにつれ自分のためだけに使える時間ってどんどん減っていってしまうし、他人とあわせる時間はもっともっと減っていってしまう。仕事が忙しくなったり、家庭を持ったり、子供ができたりいろいろありますが、そういうものに縛られない時間を友達と過ごしたし、ハンサムは一つの楽しさの象徴でもあったなぁって

いうて別にハンサムライブ毎年通ってました!とか全然ないんですけど。どっちかというと円盤学習だったんですけど。でも彼らのうちの一人を追っていて、いろいろなところで見えてくる、あの世代の空気が好きだったんだなぁ

そしてあの世代の中心は、春馬と健だったんですよね。あ~~なんか本当に楽しい世代だったなって。前の青春だったねアミューズ的な記事でも書いてたんですけど、もう二度と、彼らの世代が横並びになった時に春馬はいないっていうのが、もう、あ無理、泣いちゃうね。泣いちゃう

 

いや~~~~~~~~~だからってね!!!!わたしがうじうじぐだぐだしていてもなんの意味もなければなんの価値も生み出さないのでね!!!!!!!!今日も元気に生きていこうな!!!しかないんだけどよ!!!!

やっぱり人の死って本当に悲しいなあって。事実かどうかは分からないけど、もし本当に自ら命を絶ったのであれば、やっぱりその事実も悲しいなって思ってしまうんですよね。これはわたしのエゴですけれどね

でも分かんないからね。その人が何を考えて、何を抱えて生きているのかなんてね。仮にその人の心をそのままむき出しで手渡されても「ああこんなこと考えてたんだなあ」とかは思うかもしれないけど、その人の感情として理解することってやっぱり何があろうと不可能だから難しいよね

生きてきた線路がみんなそれぞれ違うし、仮に同じ線路に乗り込んだところで別個体だから何があろうと絶対に分かり合えない。それでも理解しようと思うからそこに愛が生まれるし、努力することが信用につながるし、積み重ねていく事が信頼になっていくんだろうなと思うけれども。何の話だ

一人の人間としての人生は知らないけれど、役者として彼に励まされたり元気をもらったり青春感じたりしていた人間としては、やっぱり未来が急になくなっちゃったことが悲しいしさみしいなあって思う

だってもっといろんなお芝居を見たかったし、もっといろんなことしてほしかったし、さみしいなって。どんどん素敵な役者さんになっていくだろうし、年を重ねたお芝居とかも見たかったなって。才能が見れなくなる切なさって大きいなって思う

 

でもね、人って必ず死ぬから、どんなに素晴らしい人でもどんなことがあっても必ずいなくなってしまうんですよねえ。そうなると、やっぱり自分の心にその人が与えてくれたものをきちんと価値として根付かせていく事って大切なんだろうなって思うよね

異世界とかにいってしまう物語の中で、本来あるべき世界に戻った時に『二度と異世界に行くことはできなくても本当はすぐ隣にその異世界があって、心で思えばすぐにつながる』みたいな設定のものがわたしはとてつもなく大好きなんですけれど、それは現実を生きているわたしが、例えば他人の死であったり、そういうものに関しても同じように適用できるのかもしれないなって

人生が何かを為すためにあるとした場合、それが記念碑に残るような規模の人もいれば、隣人の心にとても大切な価値を残していく人もいると思うんですが、それって相手側ではなく、自分の心次第でもあるなぁと思うので、なんというかこう、もう俳優三浦春馬はいないかもしれないけれど、かけがえのない大切なものをもらったなっていうその価値を自分の心にきちんと残したいな~って思いました

まだまだ実感があるようでまったくないんですけれど、たぶん何年たってもああもういないんだなあってふと思い出したりするのかもしれないなぁって思いました

あ~~~~~~~かなしいね。やっぱりとってもかなしい。でも悲しんでいてもどうにもならないんだよなぁ

すべてのものは流れゆくし、形あるものは必ず形を失うのだけど、もしかしたらこの気持ちもいつかなだらかになっていくかもしれないし、風化するかもしれないし、全然そんなことがないかもしれないけど、それでも事実と現実は変わらないので、三浦春馬という役者がわたしの人生に与えてくれた、愛しい記憶をちゃんと大切にしたいですね

心からご冥福をお祈りいたします

いっぱい楽しい思い出をくれてありがとう~~~~~~大好きだよ〜〜〜〜〜~!!!!!!!!!!!

君が大好きさ!